2011年9月24日土曜日

役割と値

役割(role)
FauconnierのMental Spacesで用いられる概念で、語の内包的解釈の一種。「彼のアパートはどんどん大きくなる」という文は、次々により大きなアパートに移り住むという読みと、特定のアパートがどんどん巨大化する(増築などで)という読みを持つ。後者の読みでは「彼のアパート」は特定の建物を表しているが、前者の読みでは特定のアパートを表しているわけではない。Fauconnierは、前者の読みでは「彼のアパート」は役割rを表しており、そのrが「どんどん大きくなる(より大きな建物に替わる)」という属性を持つのだと分析する。一方、後者の読みでは「彼のアパート」は役割rの値である特定の建物aを表しており、そのaが「大きくなる(巨大化する)」という属性を持つのだと分析される。

役割関数
Fauconnierは、役割とは関数であると説明する。役割rのスペースmにおける値がaであることは、r(m)=aのように記述される。しかし私見では、役割を関数として記述する方法はあまりよくないのではないかと思う。このような記法は、モンタギューの内包論理のような内包概念を外延的に記述する意味論で用いられる。しかしメンタル・スペース理論では、同一のスペースmの中に役割rと値aが別々の意味論的オブジェクトとして併存するものと見なされており、その意味において役割rは“内包主義的な”内包概念である。r(m)=aのような記述は、スペースmにおけるrとaは同一のオブジェクトであるという誤解を生じかねない書き方であり、避けるべきである。

属性的用法と指示的用法
Donnellanは、「スミスを殺した犯人は正気じゃない」という文には二通りの読みがあると指摘した。一つは、誰であれスミスを殺すような奴は正気じゃないという読みであり、「スミスを殺した犯人」という記述が表す属性が文の意味解釈において本質的な役割を果たしている(仮にスミスが殺されたのでないとすれば、この文は意味をなさなくなる)ので属性的用法と呼ばれる。もう一つはスミスを殺した犯人であるとされるジョーンズは正気じゃないという読みで、「スミスを殺した犯人」という記述はジョーンズを同定するために用いられているに過ぎない(仮にジョーンズが犯人でなかったとしても、ジョーンズが正気じゃないということ自体は成立する)ので指示的用法と呼ばれる。Fauconnierは、属性的用法とは「スミスを殺した犯人」が役割rを表している場合であり、指示的用法とは値aを表している場合であると分析する。

抽象的個体
Fauconnierの役割は、Carlsonの種(kind)と似たところが多い。「オオカミは北に行くほど大きくなる」という文のごく自然な読みは、北にすむオオカミほど体が大きいというものである。Carlsonは「オオカミ」は種kを表しており、kが「北に行くほど大きくなる」という属性を持つのだと分析する。Carlsonは種を抽象的個体と見なしている。通常の個体が空間的に束縛される存在物であるのに対して、抽象的個体は空間的に束縛されない存在物であると言う。種と役割の違いを明確に述べることは難しいが、役割が通常は特定少数の要素を値として持つものと期待されるのに対して、種は通常は外延を明確に特定できないというあたりに違いがあるのではないかと思われる。

時間断片
Carlsonは、ある場面における種やある場面における個体というような、時間断片(stage)というタイプの存在物を仮定する。「犬/ジェイクは賢い」が種dや個体jが「賢い」という属性を持つことを述べる文であるのに対して、「犬/ジェイクが病気だ」は種dや個体jのある時点における時間断片が「病気だ」という属性を持つことを述べる文であるとする。もう少し詳しく言うと、「犬」や「ジェイク」は種dや個体jを表すのだが、「病気だ」という述語が「~の時間断片が病気だ」という意味を持つものとして解釈される。このとき「賢い」のような述語を個体レベル述語(individual level predicate)、「病気だ」のような述語を場面レベル述語(stage level predicate)と呼ぶ。種や個体が時間的に束縛されない存在物であるのに対して、時間断片は時間的に束縛された存在物であると言う。

値と時間断片の違い
種/個体vs.時間断片の関係が、役割vs.値の関係とは別物であるということに注意する必要がある。上で述べたように、「スミスを殺した犯人は正気じゃない」という文で、「スミスを殺した犯人」は役割rを表す場合も値aを表す場合もあるが、どちらの場合も「正気じゃない」は個体レベル述語である。一方、「スミスを殺した犯人がドアを壊した」という文は誰であれスミスを殺した犯人がドアを壊したはずだという読みと、ジョーンズがドアを壊したという読みを持つが、どちらの場合も「ドアを壊した」は場面レベル述語である。すなわち、役割と、その値である個体は互いに独立した存在物であり、それぞれが別々に時間断片を持つのである。これは同一スペース中に役割と値を併存させるFauconnierの考え方とも一致する。まとめると、役割vs.値とは別々の二つのオブジェクトの間の関係であり、個体/種/役割vs.時間断片とは単一のオブジェクトの全体と部分の関係である。

参考文献
Donnellan, K. 1966, "Reference and Definite Descriptions". The Philosophical Review, 75(3).
Carlson, G. 1977, "A unified analysis of the English bare plural". Linguistics and Philosophy, 1(3).
Fauconnier, G. 1985, Mental Spaces. MIT Press.

2011年9月23日金曜日

定義文

構文
「AとはBだ」のような文のことを定義文という。「AというのはBだ」と言ってもあまり意味が変わらないので、おそらく「というのは」が「とは」になったのだろう。さらに言うと、「AというのはBだ」は「BをAという」を分裂文にした形をしている。「定義文というのは『AとはBだ』のような文のことだ」みたいな。目的語の位置にしか生起しないと言われる「のこと」が、述語名詞Bの位置によく現れるというのも特徴の一つで、これも「BをAという」のような文との関連性を示唆しているのかも知れない。

メタ言語
「Aとは」のAは、メタ言語的であると言われる。メタ言語とは、語それ自体を表すような語のことで、「『富士山』は名詞だ」というときの『富士山』などがこれにあたる。「クアッガとはシマウマの一種だ」という場合の「クアッガ」も、クアッガという種それ自体ではなく、『クアッガ』という語を表しているのだと考えるわけである。私は以前、「A」は『A』という語を表すメタ言語であり、「Aというの」という句全体で『A』という語が表しているものという概念を表しているのだという分析をしたことがある。今にして思うと、この分析はちょっと怪しいところがあるのだが、しかし「A」の部分がメタ言語であるという点については、今でも妥当な仮説だと考えている。

使用法
「Aとは」は、『A』という語が何に言及しているのか分からない場合に用いられる形式であると言われている。例えば、「A」、「Aという人」、「Aとは」という表現を比べてみると、「昨日、太郎に会ったよ」は、話し手と聞き手がどちらも太郎を知っている(少なくとも、話し手はそう思っている)場合にのみ用いられる。聞き手が知らないはずの人物に言及する場合には、「昨日、太郎という人に会ったよ」という言い方をする。「太郎」という語の指示対象が分からない場合には、「太郎って(とは/というのは)誰のこと?」という言い方をする。「という人」と「とは」の違いについて注意しなければならない。「Aという人」は、『A』の指示対象がaであることは分かっているが、aについて十分な情報がないという場合に用いる。「Aとは」は、『A』の指示対象がaなのかbなのか分からないという場合に用いる。

意義と意味
「Aとは」は、Aの意義が分からない場合にも、意味(指示対象)が分からない場合にも用いられる。例えば、「大統領とは何ですか」というときには、話し手が聞いているのは『大統領』の意義である。一方、「大統領とは誰(のこと)ですか」というときには、話し手が聞いているのは『大統領』の指示対象である。

役割
「大統領とは太郎(のこと)だ」に似た表現に、「大統領は太郎だ」がある。この文は「大統領」が表す役割rについて、その値がa(=太郎)であることを述べる文であるとされる。この場合、『大統領』という語がrを表していること自体は分かっているので、「とは」は用いられない。ところで、『大統領』のような記述句は役割rを表す用法の他に、rの値であるaを直接表す場合もあることが知られている(Donnellanの属性的用法と指示的用法の区別に相当する)。「大統領とは太郎のことだ」では、『大統領』は値を表す用法で用いらているが、その値がaなのかbなのか分からないので「とは」が用いられる(より厳密にいうと、この場合の『大統領』は“値用法の『大統領』”を表すメタ言語である)。

道路標識
目の前にある道路標識が何を表しているのか分からないとき、「あの標識は何ですか」とは言うが「あの標識とは何ですか」とは言わない。この場合は、標識aが何を表しているかが分からないのであって、『あの標識』が標識aを表していることは分かっているので「とは」を用いないのである。これは、「大統領は誰ですか」において、rの値がaなのかbなのかは分かっていないが、『大統領』がrを表していることは分かっているので「とは」を用いないのと同じメカニズムである。

参考文献
田窪行則, 1989, 「名詞句のモダリティ」 仁田義男, 益岡隆志(編)『日本語のモダリティ』 くろしお出版.
藤村逸子, 1993, 「わからないコトバ、わからないモノ―「って」の用法をめぐって―」『言語文化論集』14, 名古屋大学言語文化部.
東郷雄二, 1994, 「メタ形式としての「~とは」とフランス語の属詞を問う疑問文」(関西フランス語学研究会発表)
今田水穂, 2006, 「役割・値文としての「とは」コピュラ文: メタ言語と記述句の理論の観点から」 杉本武(編)『日本語複合助詞の研究2』